水の駅2019 釜山公演

2015年。
当時の釜山市立劇団の芸術監督から金 世一に客員演出の依頼があった。
「その依頼にどんな作品が合っているのか」…それは、作品選びから始まった。

それから3年。

人間関係や人間の情念をあたかも東洋画の余白のように表す舞台美学を特徴とする沈黙劇「水の駅」に演出作品は決まった。

そして、2019年

韓国・日本・そして台湾から演劇人を招聘し、約1か月の稽古期間を経て、釜山市民会館にて「水の駅」を上演。

「水の駅」は
金 世一が2003年から日本で築き温めてきた「舞台美学」「俳優訓練」「演劇交流」の全てが結実した公演となった。


「水の駅」 2019

演出: 金 世一

日程:2019年4月8日(月) ~13日(土) 6ステージ

会場: 釜山市民会館 小劇場

出演:황창기 

           정마린

           이현주

        Jisun Youm

           김은희

           이혁우

        Boki Seo

           김은옥

           오희경

           강범수

           이동현

           石黒恒 

           四宮義斗 

           竹内真 

           本家徳久 

           鈴木みらの 

           柴田貴槻

STAFF

演出助手:柴田貴槻

映像記録:前川衛

ドラマツルグ:沈池娟

舞台デザイン:김유리라(キム ユリラ)

照明:조세현(ジョ セヒョン)

特殊効果:김덕희(ジョン マニョン)

舞台製作:김재한(キム ジェハン)

製作:부산시립극단(釜山市立劇団)




そして、2021年・福岡…



水の駅 釜山公演劇評

台詞を超えた無限の想像力

釜山市立劇団の沈黙劇『水の駅』
(《芸術釜山》2019年5月号に掲載)

記.キム・ムノン演劇評論家
(翻訳 市川愛里)

 
 実に久しぶりに、釜山市立劇団がしっかりとした本位の位相で、釜山演劇人と市民たちへ、恵みの雨のような公演をみせた。

市立劇団の存在理由であり役割は何であろうか。

それは演劇・芸術家達へ、安定した環境の中で公演に邁進できるようにすること。

民間の演劇人達に対しては多様なレパートリーや演技の模範となる、演劇の真髄を示すこと。

そして、市民達には面白さと驚きで、芸術に畏敬の念を感じさせることだ。

 釜山市立劇団の第64回定期公演『水の駅』(太田省吾 作・金世一 演出 2019.4.8~4.13 釜山市民会館 小劇場)は台詞は無く、ジェスチャーと表情だけで、観客へ想像力の無限の地平を提供する沈黙劇だ。俗にこのような様式を黙劇、無音劇、パントマイムなど別名でもよばれる。

 今回の公演は、31年前のソウルオリンピック芸術祝典(1988)のときと、同じスペースでの再公演となった。演出の金世一が代表で常任演出をしている日本の劇団[世 amI]と共演で行われたという点で新しい意義を付与することができた。

ひとつ付け加えるならば、演劇人と観客たちへ実験的なレパートリーを通じて演劇の無限の可能性を提示したという点もあった。

この作品は、太田省吾の‘「駅」三部作 ’のうち、一番最初の作品で、内容と形式があり比較的に実験的な公演として挙げられる。

じつは私たちが使っている音としての音声言語は、現代人のコミュニケーションの唯一の道具にはなはらない。

演劇で台詞があれば、その台詞のために観客たちは、その向こうにある根源的な身振りや内面の声を見落とす。

しかし、今回の公演のように音を取り除いたら、観客が音のために追いやっていた内面の風景や沈黙の真の意味を余すことなく発見する面白さを満喫することができた。

相手方の表情や目つきだけ見ていても、その人の心を読むことがでる理屈と一緒だ。

『水の駅』でとても重要なオブジェは、水道の蛇口から終始流れ出る水だ。

作品の中で水は止まることなく流れる。この点から、水は‘人生流転’の表面的な意味と悲しみ、生きる孤独、悲哀、喪失感、寂しさ、愛の欲望などを洗い出し、内面の治療としての‘浄化’という深い意味を持つと見ることができる。

 少女が、愛の切ない懐かしさと憧れを水で癒し、荷担ぎは労働の疲れを、物を持つ者は欲望を水に置き換え、夫婦は生活の退屈と喪失感を水で回復させ、若い恋人同士は水を通じて高潮する愛欲を冷やし、水を介して、生活の歓喜を感じたり痛みを和らげたりもする。

観客はひたすら俳優たちの身振りと表情だけを通して、人物たちの行為を想像する。誰が、何を、どういう風に想像するかは自由だ。

まるで舞台というキャンパスに展開された、一枚の抽象画を見るようだ。

その点でこの作品は、上演の間音の中に閉じ込めれられて見ることができなかった、登場人物(俳優)の内面に耳を傾けることができる、無限の自由を取り戻したわけだ。

『水の駅』は観客へ、無限の想像力の地平を過不足なくプレゼントしている点で素晴らしい。

 この作品は、俳優達の身振りに独創的な意味を示している。日本の伝統劇である‘能’の動きを適用している。東洋的な‘静中の動’の美学を動きの源にしている。

西洋の動きは速度を強調した‘動中の静’ならば、東洋的な動きは、観照した‘静中の動’ということもできる。

 ゆっくりと動く東洋的な身振りは無限の競争の速度を警戒し、生を観照することのできる余白をもたらす。

舞台上の人物たちは言葉が無く、観照的な距離を保つことに一貫していた。

しかし彼らの身振りや表情の中に、私たちは数多くの意味を読み取ることができた。

音が排除された場所で、より多くの想像力の地平が開いてくれた歓喜を体験することになる。

 もう一度、この作品の「人生は尻尾を噛んで循環している」は、ある種の業と縁の仏教的世界観を濃縮している。

オープニングシークエンスの少女がエンディングシークエンスへもう一度登場するのは、無限の反復の円形構造を通じて、‘人生は水のように回って循環を続けていく’は意味を投影している。このような側面から見れば、この作品は一種の東洋的不条理劇だ。

 俳優たちの身体の動きは、日本の劇団[世 amI]の俳優たちが断然圧巻である。

この作品の白眉は、様々な俳優が登場しては水場で遊んで楽しみ、欲望など人間の根源的な生の(生きる)風景を集約して表現しているところだ。

オープニングシークエンスに登場する少女役のキム・ウノク、夫婦のシーンで生活の倦怠と喪失感をみせてくれた、妻役のキム・ウニ、恋人たちの愛欲の高潮を流麗な身振りでこなしてみせてくれた女役のヨム・ジソン、籠を背負った老女の寂しさと孤独、そして死をみせてくれたチョン・マリンの演技が断然目立っていた。

エリック・サティのピアノ曲『ジムノペディ』とアルビノーニの『オーボエ協奏曲』などの音楽は、作品のイメージと情調にとても良く調和していたが、チョン・スラの『アァ、テハンミング (あぁ、大韓民国)』の歌はちぐはぐな感じがあった。

 この作品の唯一の台詞は、水道の蛇口から流れ落ちる水の音と音楽だった。

身体の動きと表情、演技としてのマイムが、俳優たちにどれだけ大事な要素なのかを思い出させてくれた点で、演劇人たちと観客たちへ新しい形式の衝撃を与えた側面から、この公演で大きな意味を付与することができるようだ。

しかし、ゆっくりした美学を体現した動きに比べて俳優たちの表情の段階が深く多様にできない点に物足りなさが残った。

演出家がシーンの意味を自分の具体的なビジョンと哲学で形象化できなかった点も惜しい。ゆっくりした動きと相反するように早いリズムの音楽を使ったらどうなるか、とも考えてみた。

 釜山市立劇団の新しい芸術監督の体制に突入した。

これから現場の演劇人たちの才能を積極的に迎え入れる仕事、古典と現代の問題点を多様に引き合わせる仕事、釜山の作家と演出家たちへ創作劇の発表の機会を提供する仕事、商業的レパートリーで市民たちに楽しさを提供する仕事、それから、市立劇団の俳優たちの演技で、生まれ変わるための努力を見せる仕事が宿題になった。

問題は、人間だ。

意識が変わらなければ、演劇の新しさは期待できないからだ。

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